2月18日 雪

冬らしい一日。朝工藝論。タイトルを変更して『二〇二五年二月十七日から工藝と欲について考えてみた』とした。正直言うと、工藝と言っているのは「ものづくり」のことだし、欲といっているのも一般に欲と認識されているものとは違う概念なので、おそらくまた変わる。原稿は少しずつ進めているけれど、毎日色々と考えてメモを残しているので、ブログにはそのメモを箇条書きにして書き残すことにする。ただの特に内容のない日記よりも書くことも読むことも面白さという意味ではマシになりそう。

一日の制作内容は、9寸リム皿。名刺入れの彫模様と組み立て。漆。リム皿などは僕のものづくりの一番の大枠である「自分の欲しいものをつくる」にあるもので、さほど経年変化のことなどは考えていない(もちろん経年変化するけれど、漆は塗り直すこともできる。)。毎日使いたいものは毎日作りたいものでもあって、日々当たり前のように作ることができるのはとてもありがたい。最近彫模様も毎日やりたいことになってきていて、僕の日常に深く入り込んできているのを感じる。大橋さんとの飲み会は雪のため延期。電話で打ち合わせ2件。

昼休憩後に雪かきして14時前に版画用のプレス機が工房にやってきた。木工家が持つには大きすぎる気もするけれど、これでまた制作の幅も広がりそうだし、プレス機自体もかっこいい。使いこなせるように頑張ろう。

夜少し工藝論。ものを書くようになるとブログの記事も自動的に長くなる。習慣化すると色々なことを当たり前のようにできるようになる。僕が自発的に原稿を書こうと思ったのは、実際に手を動かしている人で工藝のことを書く人が非常に少ないため、僕のようなものでも全く違う視点から書くことができるのではないかと思ったから。日々ものをつくりながら思っていることがあるし、『工芸青花』21号の原稿を書かせていただいたことで、本気で考えるきっかけを得たことがとても大きい。その原稿では「抜け殻」「美」「自然」「生物欲」「無生物欲」という概念が登場するけれど、それぞれその言葉は一般的に持っている意味とは違ったものを内包している。以下に今進めている原稿のためのメモを残すけれど、これらの言葉が頻出する。自分でもそれらが何を意味しているのかよく分かっていないけれど、日々考えることでそれぞれの性質が明らかになってくればいいと思っている。僕はこの工藝論を書くことで、ヒトとものの関係性への関心を自分でも深めたいし、読んだ人にも深めてもらいたいと思っている。例えば、ものを大切にしなさいということが何を意味しているのかを考えたいのだ。

---------以下雑記

・無生物欲について何か思いついたけれど、すぐにメモしなかったので忘れた。
・産地の工藝について。土地の欲や過去の職人たち欲を全て受け入れている。数を作るためそれぞれに入る欲が少ないようにも思うけれど、関わる人が多いため結局多くの欲は注入される。これだけ考えるとものは力を持ちそうだけれど、それならばなぜ衰退するのか。欲にベクトルがあるのか。流動性が滞る要素があるのか。うまくいけば最強のものづくりになりうるが、そうでなければ容易に普通や普通以下になるのかも。
・人がものに対して反応するのは、初めてもの(人工物)に出会ってから時間が経っていないから?人工物が人工物でないもの(自然?)と同等になっているということ?デジタル空間の発達→出会って間もないから新鮮で反応する。逆張りとしての手仕事はもちろんありうるが、時を進めていって、新しいものを生み出せなくなった時、人は人工のもの全てに反応しなくなる可能性もあるのかも。もしかしたらその時にこそ、全てのものが自然化するのか?
・蜂は何も感じることなくあの美しい家を建てるのか?何も感じることなくあの美味しい蜂蜜を作るのか?もしもそうなら我々も何も感じずにものをつくるようになるのか?いや、順番としては何も感じずに作っていたのに何か感じるようになったのか。蜂も自分たちが作っているものに何かを感じているのか?