2月17日 夜中雨 朝晴れ また雨 そして雪

起床。「工藝と欲の哲学」少し進展。朝薪ストーブに火を入れるときに使う木屑が濡れていた(生木を削ってビニール袋に入れていたものが乾いていなかった)ため、2度も工房へ木屑を取りに行く羽目になった。既存の哲学を参照せずに進めることを大切にしたい。そうしなければすぐに取り込まれてしまう。

尺の丸盤。その後、自分のものではない名刺入れの制作に入る。これを今年の桃居の案内状用の作品にする予定。桃居での個展は6月11日からです。本体の内側になる部分に彫模様。そして組み立て。もう1点も進め始める。

どういったかたちになるのか分からない「工藝と欲の哲学」の原稿も自発的に書き始めた。毎日少しずつ書いていれば、そのうちその時点までに言いたかったことは大体書けるのかなと思う。学生の頃の科学論文とは違い、これで終わりというのがないから難しい。分かりやすく書かなければいけないわけではないし、勝手に書いている原稿なので、思考の過程も全て書き残そうと思っている。そのことによって、一つの概念が、大まかな物語の段階からどのように変遷していったのかということが分かるのは面白そうだ。

そういえば昼休みに面白いことを思い出した。今は哲学や思想をとても面白く読んでいるし、考えられる(むしろこういうのは得意だと思う)のだけれど、なぜ若い頃には全く触れてこなかったのだろう。そう疑問に思った瞬間に、「これもファインマンだ!」と懐かしんだ。

僕が物理に興味を持ったのは高専学生2年生のときに倫理社会の夏休みの宿題で『ご冗談でしょう、ファインマンさん』『困ります、ファインマンさん』を読み、感想文を書いたことだった。そして、『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』にファインマンがプリンストンの大学院生だった時の哲学科の学生との会話やゼミの様子を読んで、若い頃の僕は「なんだこりゃ。誰も何も分かっていないのか。」と思ってしまい、距離を置くようになってしまったのだ。1つの概念が何を意味するのか考えるとか、論理的に考えるだけで何かを導くということの面白さに目を瞑ってしまった結果、勉強しなくて済んだわけだ。今読むととても楽しめるわけだけれど、なんとももったいないことをしたようでもある。どちらが良かったのかは分からないけれど、そういうことを全部ひっくるめて今の自分があるのですよね。みんながそういうことの積み重ねでできている。面白いですね。

ちなみに上記のファインマンの話では、大学院の大食堂で哲学専攻の学生と食事をして、ゼミに招かれることになる。食事中もホワイトヘッドの『過程と実在』についての議論を聞いていても何を言っているのか全く分からなかった彼を、哲学専攻のみんなは丁寧に招待してくれたというわけ。ゼミではホワイトヘッドが提唱した「本質的対象」について皆で論じ合っていたのだが、教授がファインマンに「君は電子を本質的対象と考えるか?」と聞いてくる。先ほどから「本質的対象」の意味が全く分からないファインマンは逆に「一個の煉瓦は本質的対象か」と問う。すると学生全員が別々のことを言って、最後はこれは哲学者をからかう話によくあるように)大混乱に陥るという話。

でも実は「電子」というのも仮設であって、「こういう性質の粒子があると色々なことが説明できる」という理論上の構成物であるから、まずは「一個の煉瓦」について聞いたのだという実はものすごく哲学的な話になっているのだけれど、哲学者をからかう方にだけ目がいってしまっていたのですね。逆にファインマンも感じたように「ただの煉瓦を見るのにあれだけさまざまな面白い見方があるもんだとは思ってもみなかった。」に着目する人は、同じ箇所を読んで哲学者になりたいと思うのかもしれないと、今では思えるようになりました。

結局人間がやっていることは、今の僕にとっては大体全部重要で面白い。そういう話は自分の子供達に語りかけるかたちで株式会社カルチベイトが発行している『CULTIVATE BIBLE 正義と微笑と六〇人のカルチベイト考』に昨年寄稿しました。https://tu2ura2.com/products/cultivate-bible
僕の子供たちはこのことをまだ全く分かろうとしていませんが、おそらくそのうち痛感するのだと思います。それにしても『俗物』もそうだったけれど、こんな本を作ろうと思うことがなかなか狂人的であり、彼らが近くにいるのは宝だなと思います。18日は大橋さんのところで呑む予定なのだけれど、雪がひどければ延期かなという感じです。