昨日は多治見のギャルリ百草で古道具坂田展を見てきた。
出かける前に、「絶対に買わない。見てくるだけだ。」と誓ったはずなのに、会場に入ったとたん、細長い板皿を取り置いてもらっている自分にあきれる。そのあとにも、くらわんか手の白磁や破れた弥生土器、ブリキ絵、朝鮮の合子、染付の皿などに心奪われながらも、被害はなんとか1点のみで済んだ。お昼過ぎに聞いたシンポジウムも面白かった。いろいろと考えさせられた。

坂田さんのお話を聞いていると、よく「取り合わせの美」ということが出てくる。日本のものは骨格がなく、障子を通した柔らかい光のもとでこそ美しいというような。昨日おもったのだけれど、百草で見る坂田さんの選んだものは少々居心地が悪そうだった。これまでも少し気になっていたのだけれど、すばらしい百草の建物の中にも、ものがよく見える部屋とそうでもない部屋がある。「取り合わせの美」というのはとても微妙な話で、少しでもお互いの条件が変わっただけで、必ずしもベストの取り合わせではなくなってしまうのだと思う。そんなことを考えていると、自分が買った長い板皿が自宅でどう見えるのかがとても気になりはじめるとともに、自分の作るものとその嫁ぎ先の取り合わせのことも改めて意識した。

今朝板皿を見てみると、どうもうちには黒すぎるようだ。とりあえず水でじゃぶじゃぶ洗って乾かすと、なんとなく居心地よさそうにしてくれている。