器というのはそれを置く台(テーブルだったり、座卓だったり、畳だったり)によって、よくもそうでなくもなる。テーブルの上にのせて美しいものは、そのテーブルによって限定されてくる。ある器に出会って、風合いがよいなぁと思っても、その風合いを受け止めてくれる台というのはとても少ない。

ミズメ(といって買ったけれどたぶんカバだと思う)で作った7寸の皿を我が家のテーブルに置いたときにはっきりと実感した。建築空間とそこに置かれるものの関係についての坂田さんの言葉は何度も目に耳にしたけれど、器のようなものだと、それが置かれる(すなわち使われる)場所に依存するのだ。我が家で使っているのはオイルフィニッシュの無垢材のテーブル。この上にこれまでいろいろな器をのせてきたけれど、心から「これは合うなぁ」と思ったことは今朝まで一度もなかったことにようやく気がついた。余計なことは不要なのだ。その木をその木らしく、使う場所(そのものが触れる場所、同一フレームに入る場所)に合うようにつくることが大切なのだ。

それから器のかたちについても。椅子に座ってテーブルで食事をする。床に座って座卓で食事をする。微妙に台を見下ろす角度は変わってくる。でも器を真横から見ることははっきりいってない。物事は常に三次元的だ。食事の際にはかなり急角度で見下ろすことになる。だったら、その角度からみたときに美しいものが美しいのだ。

暮らしから出てくるものを作るといいつつ、最も肝心なことにようやく気がついた。一見いかにも今っぽいものであっても、しっかりと作ってあって、時間とともに相応の歳をとっていってくれるものが、おそらく僕にとっては一番よいものなのだ。新しい器なのに、古びた板に置かないとよく見えないようなものは、感じはよいけれどなにか健全ではないような気がする。僕は家具も器も同じ時代を生きていくものをつくろう。